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私の PERFECT DAYS

 朝。目覚ましが鳴るのを止めるために、目覚ましが鳴る前に起きていることがある。太陽が昇る前に窓を開けてベランダに出ると、遠く都会の、ビルの屋上のいくつもの赤いライトが綺麗に見える。航空障害灯というらしい。ベランダで、桜の盆栽に水をやる。家を出るのは、6時15分と決めている。曜日に応じて、ゴミ出しする。最寄り駅からは始発電車があるので、ちょっと早く家を出て電車を待てば、ほぼ毎日、座れるのがありがたい。数年前は、通勤時はなるべく座らないようにとしていたのだが、一度覚えると、座りたいという方が日常になっていることが恐ろしい。座席は、ドア横の端の席に座る。そして鞄から本を出して、40分間の通勤時間中は、本を読む。本を読んでいると、たいてい眠くなってついウトウトすることの方が多い。1回乗り換えをして、勤務している学校で朝の打刻をするのは、だいたい決まった時間になる。自席で、パソコンを開く。そんな朝の、繰り返しである。

 出勤しない土曜日曜も、極力同じ時間に起きる。早起きして、時間ができるのでコーヒーを淹れる。さて、休日は何をしよう。先日、役所広司主演の映画「PERFECT DAYS」を観に出かけた。それは、ヴィム・ヴェンダース監督による日本映画ということで興味をもったからだった。ヴェンダース監督と言えば、「パリ、テキサス」である。自分はその、VHSを持っていた。そういう時代(レンタルビデオ店で借りるのも、VHSビデオという時代)だったなと思い出されて懐かしい。ロードムービーという言葉も、「パリ、テキサス」から知っただろうか。「すごく良い映画ですよ。」と紹介した人に、「なんだか淡々としているだけで、つまらない映画だったよ。」と言われたことも、覚えている。「パリ、テキサス」はしかし、少し陰があってパッとしない自分の、青春時代を象徴するような、好きな映画の一つだった。「PERFECT DAYS」は、ロードムービーではないのだけれど、主人公平山の、日常が淡々と描かれている映画だった。ヴェンダース監督作品ということで、ちょっと期待した分、すごく良かったというわけではないのだけれど、まぁヴェンダースだなって、思える映画だった。ただその、何か物足りない分は、自分がもう若くはなくて感受性みたいなところが鈍感になってしまったからなのか、なんなのか。なぜか思ったことは、自分は旅をしていないな、ということだった。

 3月2日に、勤務している学校で卒業式があった。その前日に、石川県の輪島高校の卒業式がニュースに取り上げられていた。輪島高校は正月の地震の被害により、金沢市のホールでの卒業式になったということだった。輪島高校の校長が式辞で「コロナ禍ではみんなで工夫して乗り越えることを学び、地震も起きて、みんなにこれ以上頑張れとは言えませんが、前を向いていくしかありません。」と卒業生に声をかける場面が映像で流れ、見ていて涙を誘われてしまった。日常が失われてしまうことが日常になるってどんなことだろうかと想像する。その翌日が自校の卒業式だったので、日常の続くことの尊さを噛みしめる卒業式であった。生徒たちは、晴れやかに嬉々として卒業していった。勤務校は工科高校であるため、卒業生の多くは就職し、4月から社会人となる。だから余計、先生方と別れがたく、また友人たちとも離れがたく、式が終わって午後になっても、学校に残っている生徒が多かったなという印象の、卒業の日であった。

 職員室に卒業アルバムを持ってきて、何か書いて下さいというサッカー部の生徒には、「夢を育てよう」という言葉を書いた。信じれば夢は叶う、と語るアスリートもいるが、それはその人が稀なケースだからだと言いたい。多くの人の夢は、叶わずに終わるものなのである。すべてのサッカー少年が、ワールドカップのピッチに立てるというわけではないのだ。ただ、サッカーが好きで、やっぱりサッカーを続けていたいから、少年サッカーの指導者となった人を知っている。あるいは、サッカー関係の仕事がしたくて、サッカーボールを作る会社に就職する人もいるだろう。そのように、夢は、枝を伸ばして、様々な方向に広げていくものなのだと私は思う。夢は、叶えるものではなく、育てるものなのだ。そんな話を、サッカー部の卒業生に書いて贈った。これから新社会人としての道を行くそれぞれに、幸あれと、願った。

 卒業式はハレの日であったけれど、日常は淡々と授業があり、大きな事件・事故もなく、そう遅くならずに退勤する。帰路も始発駅から電車に乗るので、並んで始発を待ち、座って帰れることが多い。座れればできれば端の席に座る。鞄から本を出して本を読む。本を読んでいると、…やはりまた、寝てしまう。それでなかなか、一冊の本を読み終えるのに日数がかかるのだが、今は幸田文の「木」というエッセイを読んでいる。これは、映画「PERFECT DAYS」で平山が読んでいた本である。同じようなことを思う人が多いからか、本屋に行ったら増刷されたものが積まれていたのである。じわじわと良い、随筆である。そして、言葉の使い方が美しいと感じられたエッセイである。例えば、「おのがじし」などという言葉は、書いても話しても、自分で使うことはないだろうと思う。そういう、使われずに失われていくような日本語に出会えて良かった、と思った。淡々とした日常に、そういう出会いがあって、良かった。

 

 輪島の卒業生たちにも、平穏な日常が、戻りますように。