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加藤則芳さんを偲んで

 なめとこ山通信 34

 皆さんこんにちは。沖縄地方は既に梅雨入りしましたが、東京では、梅雨入り前の初夏の陽射しを眩しく感じながらも、出かけるのに気持ちの好い日が続いています。気象庁発表の3ヶ月長期予報では、7月・8月とも、まずまず暑くなりそうとのことですね。今年こそは久しぶりに、数日間山に入って山歩きを楽しみたい!・・・と、まぁ最近は毎年そんなことを思ったりするわけですが。

 

 ロングトレイルへの憧れ。・・・若い頃には、例えば湯俣からP2にとりついて北鎌に登り、そのまま黙々と北アルプスを歩いて焼岳まで縦走して下るとか、早月尾根から剱岳に登って、北方稜線、清水尾根経由で白馬へ抜けて栂池へ下るとか、そういう高低の移動のある縦走を楽しんでいた時期がありました。そのうち、単純に山の中を、森や自然の中を、歩いていることが好きになったのは、いつの頃からだったでしょうか。ピークを目指す山登りではなく、行ったことのない場所でキャンプをしてみたいというワクワク感を満足させるために、あるいは見たことのない風景をこの目で見てみたいという気持ちを落ち着かせるために、知らない世界への旅に憧れていたという、そんな時期もありました。

 こんな私が、「長い山道をどこまでも歩いてみたい」と、ちょっと本格的に思うようになったのは、ジョン・ミューア・トレイル(以下、JMT)というトレッキングルートを知ってからのことでした。JMTを歩いた時のことは、この「なめとこ山通信」の連載第5回で簡単に報告したことがありましたね。ところで、そもそも私がJMTを知ったのは、たぶんNHKのテレビ番組がきっかけで、その時そのドキュメンタリー番組に出演していたのが、バックパッカーの加藤則芳さんでした。番組は加藤さんが、JMTをヨセミテから出発して、Mt.ホイットニーを登頂するまでを追ったものだったと思いますが、歩いて歩いて歩いて歩いて、最後にホイットニーでゴールするという、その感動的な旅のスタイルに、私はすっかり魅了されてしまったのでした。そして実際、私は加藤さんと同じように、ヨセミテ国立公園をスタートとしてJMTを歩き、いくつもの湖を眺め、いくつもの峠を越え、いくつもの橋を渡り、いくつもの森を抜けて、最後にMt.ホイットニーに辿り着くという山旅を実現させたのでした。2005年の夏のことでした。

 翌年、運良く私は大蔵喜福さんの登山隊の一員として北米最高峰のマッキンリー山に登ったのですが、その時の登山隊仲間だった伊藤君から、彼が当時勤めていたパタゴニアの渋谷店で、加藤則芳さんのトークショーをするから遊びに来ませんかとの連絡をもらいました。2006年の7月頃のことです。実は伊藤君も、その数年前にJMTを踏破していたのですが、その時に偶然、トレイル上で加藤さんとばったり会い、以来、親しくお付き合いをさせて貰っているということなのでした。今回のショップでの催しはもちろん伊藤君の企画で、彼に言わせれば加藤さんは、彼の「師匠であり友人」なのだそうです。

 「On the Trail」と題されたあの日の加藤さんのお話は、その前年である2005年、加藤さんが無事成し遂げた「アパラチアン・トレイル」踏破の、報告会という形になっていました。とても楽しく、興味深いお話が聞けて、1時間半余りの時間が、あっと言う間に過ぎてしまったように覚えています。そして加藤さんは、なんとその翌日からまた、JMTを歩きに出かけて行くとおっしゃっていて、そのバイタリティーに本当に驚いたものでした。

 その加藤則芳さんが、今年の4月17日に帰らぬ人となりました。加藤さんは数年前から、難病と言われている筋委縮性側索硬化症(ALS)のために闘病生活をしていらして、そのことを私は一部の報道から知ってはいました。しかし、どうしていらっしゃるだろうかと思い出す間もなく、しばらくぶりに聞いた加藤さんのニュースは、悲しい知らせになったのでした。

 ところで近年、山歩きのスタイルとして長い縦走の良さを見直す傾向があるようです。それは、「山ガール」などのフワフワとした流行の反動かもしれません。あるいは登山ブームの広がりがあって、それ故の登山道の整備や山装備の開発の充実等があり、業界も、より専門的なニーズに応えようと準備しているのかもしれません。また例えば、初版本が1968年に刊行された『遊歩大全』というバック・パッカーのバイブルであるコリン・フレッチャーの名著が、昨年暮れに復刻されたというニュースも、ロングトレイルの旅というスタイルが、一部の山男に浸透しつつあることをあらわしています。

 しかし日本において、ロングトレイルという歩きのスタイルの第一人者と言えば、私にとっては加藤則芳さんなのでした。加藤さんは、1949年埼玉県に生まれました。早稲田大学卒業後、書店編集部で7年間勤務しましたが退社して、八ヶ岳に移住し、森の生活を楽しみながら世界各地を歩いて、自然保護をテーマにした執筆活動を続けました。そして1995年夏、シエラネバダ山脈を貫くジョン・ミューア・トレイル(340km)を一ヶ月かけて踏破します。その記録をまとめたのが、『ジョン・ミューア・トレイルを行く』(平凡社)で、ロングトレイルを知らない私にとって、それは教科書のような本になりました。加藤さんはその後、2005年にアメリカ東部のアパラチアン・トレイル(3500km)を、六ヶ月かけて踏破します。その記録は、2011年7月に『メインの森をめざしてーアパラチアン・トレイル3500キロを歩く』(平凡社)として刊行されました。

 パタゴニアのお店で、一度だけお会いした加藤さんがお話ししてくれたアパラチアン・トレイルとは、アメリカの3大ロングトレイルの一つと言われています。あと二つは、メキシコ国境からカナダ国境まで北米大陸分水嶺を繋ぐコンティネンタル・ディバイド・トレイル(4700km)と、同じくメキシコ国境からカナダ国境までの西海岸を縦走するパシフィック・クレスト・トレイル(4200km)です。340kmのJMTは、パシフィック・クレスト・トレイルの一部と重なっていて、ロングトレイルの入門コースのようなものでしょうか。一度、JMTを歩いた私の、その印象は、確かに「美しく素晴らしい自然に包まれたトレイル」というものでしたが、少しだけ違和感を感じたのは、日本の里山のような生活感や、かつて人が歩いていた跡があまり感じられないということでした。しかしそれは考えてみれば仕方のないことで、歴史があると言っても近代になってトレイルが整備されたアメリカと、古くから山岳信仰などのあった日本とでは、一方は登山道に石碑がないのが普通、一方は道祖神が似合ったりするものなのです。

 しかし加藤さんのお話によると、ジョージア州からメイン州にかけての14もの州に跨がっているアパラチアン・トレイルを歩き通してみると、そこに見えてくるのは、決して高い山々を結んだだけという単調なルートではなく、アメリカの、歴史と生活とが十二分に感じることのできるいわば里山のトレイルなのだと言います。著書『メインの森をめざして』の中で加藤さんはこう語ります。

アパラチア山麓一帯には、アメリカがたどったさまざまな歴史を物語る史跡が数多く残っている。

アパラチア山脈は、ある意味、アメリカ合衆国が西へ発展していく上で立ちはだかる、大きな障壁だった。そこに次々と人々が押し寄せ、定着、定住していった。

アパラチア山麓には、古いヨーロッパ的歴史を否定し、彼らが誇りに思い自尊し続けるアメリカ合衆国という民主主義国家へと発展していく輝かしい歴史の故郷があり、一方では、その発展の陰で、黒人奴隷制度や、ネイティブ・アメリカンを暴力的に排斥してきた後ろめたい歴史への、心の痛みを伴った複雑な思いがある。

 そのような歴史文化が、トレイルに沿って残されているのが、アパラチアン・トレイルだというのです。その様なお話をうかがって、あのパタゴニア・ショップでの加藤さんのトークショー以来、私もいつか、アパラチアン・トレイルを歩き通してみたいと思うようになったのでした。

 しかし実際、本当にその夢を実現させることは、今となってはなかなか難しいですね。六ヶ月もの長い休みは、普通取れませんから。だったらせめて日本国内にも、ピーク・ハントに拘らない、長く歩けるトレイルがあるといいなと思いました。そして同じように思う人ももちろん、いるものなんですね。そういう日本版のロングトレイルが今、少しずつ整備されてきています。そしてそこには、やはり加藤さんのお名前が関わっていました。

 国内のロングトレイルで代表的なところと言えば、長野と新潟の県境に位置する関田山脈の尾根上80kmにわたって伸びる「信越トレイル」でしょうか。信越トレイルには、構想段階から加藤さんが関わっています。大規模なトレイル整備ではなく、かつてあった古道や林道の復元などを行って、2008年に全線開通したのが、日本初の本格ロングトレイルである「信越トレイル」です。信越トレイルのガイドブックに、以下のような加藤さんの言葉を見つけました。

 人間は本来、自然なしでは生きられなかったのが、今は自然がなくても生きていける時代になってしまいました。これは異常なことです。でも、もともと自然と親しく暮らしてきた日本人は、自然の中で生きていくための叡智を持っていたはずです。知識ではなくて生きる哲学。それが体に滲みこんでいました。それが頭で考えた知識優先になっている現代のような状況は何かが狂っています。……そういう認識をもって自然性を取り入れる姿勢が必要なんです。

 私は、2005年に米国にあるアパラチアントレイル3500キロを187日間かけて歩いたんですけど、それ自体が人生になってしまったほどにのめりこんだ半年でした。アパラチアントレイルは、いろいろな人がそれぞれの人生を持ち、さまざまなドラマを抱えて歩いています。多くの人は、人生の岐路、基点の指標としてこの超ロングトレイルを歩いているんです。規模はまったく違いますが、アパラチアントレイルは信越トレイルと同じような里山の世界なんです。

 素晴らしいのは、自分たちが誇りにしている地域を歩くバックパッカーを地元の人たちがリスペクトし、さまざまなサポートをしてくれることです。たとえば、山の切れ目、街につながる道に出たときヒッチハイクで街まで出て、食料を調達したりシャワーを浴びたりするのですが、米国では危険で禁止されているヒッチハイクも、ここのバックパッカーなら誰でも気軽に乗せてくれる。こういう地元の人たちを、バックパッカーたちは敬意を込めて「トレイルエンジェル」と呼び、サポートする人たちは、そのような行為を「トレイルマジック」と称してるんです。

 こうした地元の人たちとの出会いも含めて、アパラチアントレイルではいろいろな奇跡や感動的な出来事に遭遇することが、大きな魅力なんです。ロングトレイルには本当にさまざまなマジックのような、物語があるんですよ。人生のようにね。

 

 アメリカと同じような、ロングトレイルのスタイルを日本国内に根付かせようとしていた加藤さんはしかし、原因不明の不治の病であるALSを発症してしまうことになりました。あれほど、どこへでも歩いて行けそうな人だったのにと思うと、言葉が見つかりません。病気が進行して、車椅子を使うようになった加藤さんの姿の映像が、YOU TUBEに残っていました。それは、東日本大震災後、2011年10月に収録された「バックパッカー加藤則芳さんに聞く ロングトレイルの魅力 〜三陸復興国立公園・ロングトレイル構想への想い〜」という環境省制作の動画でした。その映像はまず、自然公園に関する特別講演の様子から始まるのですが、そこで加藤さんは、環境省環境局長が隣にいる席で、「世界中で国立公園のシステムをとっている国の中で、日本ほど国立公園の意識の低い国はない」と言っています。「そこをなんとかしたいんです。一緒に何かできないか、協力して何か・・・。」と、車椅子の生活になって尚、夢を語る加藤さんの姿が、そこにはありました。動画の後半はご自宅でのインタビューになり、ロングトレイルの魅力や、三陸トレイルへの想いを語っていらっしゃるのですが、最後に加藤さんは「自然が嫌いであっても、一人でも多くの人に自然に触れて欲しい。」と、メッセージを残します。それは、ご自身が既に歩けなくなってしまったことを踏まえての言葉であり、もしかしたら、津波という未曾有の災害から一日も早く復興してまた自然と共生する姿を見せて欲しいという、三陸へのエールだったのかもしれません。

 加藤さんの遺志を継いで、自分にできることは何だろう、と考えるようになりました。

 加藤則芳さんの、ご冥福をお祈りいたします。