· 

あなたは東北を知っていますか?

 なめとこ山通信 27

 

 皆さんこんにちは。この夏は「節電の夏」と言われましたが、いかがお過ごしになりましたか。もうすっかり、震災や原発事故のことなどは気にせずにいられますか。あるいは逆に、放射能の、食品への影響を考えて産地を気にしたり、その他、色々なことを調べるようになったりしていますか。

 8月にはお盆があるので、私は毎年、父の郷里の岩手へと帰省しています。震災以降、実家のある山田町へ戻ったのは、この夏のお盆が最初ということになってしまいました。兄には久しぶりに会いました。けれど、津波に流された時の話など、いっさい聞くことはできませんでした。夜に二人で酒を飲む機会もありましたが、兄は多くを語ることはなく、「実は今、書いてるんだよ。」と言って、ニヤニヤするだけでした。兄には兄の思いがあって、その自分の思いを文章にまとめ直してみたいようなのでした。

 港のある、国道沿いの山田町の中心部(だったところ)へも行ってみました。もちろん私は、戦争を経験したことのない年齢です。戦後の焼け野原となった日本の街並みなどは知る由もありません。が、この夏、私が山田で見た光景は、きっと、終戦直後の日本の街の原風景に通じるものがあったのではないでしょうか。津波にさらわれてしまった山田の街は、あれから五ヶ月が経ったという今でもなお、そこを訪れる者が、何者かから激しく心を揺さぶられるような戦慄を覚えるのでした。山田町はそれほど大きくはない街です。それが今は、鉄筋コンクリートの建物がいくつか、ポツンポツンと取り残されて建つだけで、見渡す限り何もなくなってしまっていました。通りは、瓦礫の撤去が進んでいる分、余計に荒涼とした感じが、ひしひしと肌身に伝わって来ました。そんな中でも1軒、営業しているスーパーマーケットがあって、あぁ山田の人達はどこかで生活しているんだな、ということを思ったのでした。

 東北に住む人達は、我慢強く辛抱強い人達と言えるかもしれません。それはたぶん、雪国の人達だからです。そしてあまり、おしゃべり好きではない人が、多いのかもしれません。どちらかというと、話し下手で、お話ししても、モゴモゴ話してくださるような印象を私は受けます。それもやはり寒いところ故で、みんな極力、口を開けずにしゃべるからだ、というようなことがよく言われます。(本当でしょうか。)

 

 考えてみれば東北は、ずっとずっと古くから、天災や自然災害の被災を繰り返してきた地域でありました。巨大な地震と津波は、何百年に一度のサイクルで襲ってくることが記録に残っているようです。また、明治になって近代国家の仲間入りを果たそうとしていた日本にあって、東北という地域は、度々大きな凶作に見舞われていることも手伝って、関東や西日本の成長とは一線を画して、「貧しく遅れたイメージの地域」として、いつまでも見られてきたのでした。

 そのような東北の特殊性は、文字通り「東北」という地理的(気候的)要因・環境によるものであったのでしょうから、西日本と東北との違いは、私たちが考えているよりずっと以前から顕著だったのかもしれません。

 

 中部地方の南部から西南日本にかけては、焼畑を含む畑作農耕にしたがいながら、冬季にはシカやイノシシの狩猟をおこなう山の生活文化が広く見られた。(中略)西南日本に拡がっていたのは、照葉樹林文化の一環としての、畑作と狩猟が複合的に織りなす山の文化であった。これにたいして、東北日本における狩猟・畑作・採集を基調とする生活様式は、ブナ林を背にした、もうひとつの山の文化と称すべきものであった。

 いわば、ともに狩猟を生業の一部としながらも、東北日本のブナ林に拠る「山の民」/西南日本の照葉樹林に拠る「焼畑の民」が、列島の東/西に棲み分けをしていた、といえるだろうか。

『東北学/忘れられた東北』赤坂憲雄

 

 貧しく遅れたイメージであった東北に対しても、やがて少しずつ人の関心が集まり、開発もいくらか進み、盛岡まで新幹線が伸びるようになって漸く、首都圏との時間的な距離も縮まりました。東北を見つめ直す気運も高まり、東北を象徴する広大な手つかずのブナの原生林である白神山地は、1993年(平成5年)に世界遺産に登録されました。

 ところが今、東北をめぐる環境には、東日本大震災という未曾有の自然災害によって、危機的状況がもたらされたと言ってよいでしょう。加えて、津波によって発生した福島原発の事故は、私たちがこれまでに経験したことのないほどの大量の放射能被曝と汚染という事態を引き起こしました。地震、津波、そこへ原発事故までも加わったことで、福島を中心とした東北の太平洋沿岸地域のダメージは、私たちの想像を遥かに超えてしまいました。さらに、地震、津波、原発事故、という災害を被った人達の一部は、新たに、「差別」という攻撃を受けることになったのでした。

 例えば、東京に住む私たちが自分の食べる食材の産地を自分の意志で選ぶのは、もちろん私たちの自由です。ただ、「風評被害」というものには、差別の陰がちらついて、気持ちが悲しくなります。また例えば、京都五山の送り火に、陸前高田市の松を使う使わないことで話題になったニュースがありました。あれも突き詰めて考えれば、高田の松を使うという話を無いことにした大文字保存会が、最後まで事の主導権を握っていたわけで、自分たちの健康を考えて権利を行使しただけの話となりました。なのにどうして、なんだかこう、気持ちにザワザワとした思いが残ったのでしょう。

 民俗学の視点から「東北学」という研究方法を提唱している赤坂憲雄氏が、その著書の中で次のようなことを指摘しています。「中世以前の東北には差別のシステムがなかった。近世以降に、政治的に移植されたが、被差別の民はきわめて少数派にとどまり、制度としての根付きも弱々しいものだった。」(『内なる他者のフォークロア』)そんな、木訥で、根が正直で、おおよそ差別とは無縁だった東北の人達が今、じわじわと目に見えない差別を受けているというのが、震災以降の現状だと言えるのではないでしょうか。そのために、一度は近くに感じたはずの東北が、そこだけ切り取られて自分から離れて行ってしまうようでなりません。そんなことを思うのは、東京に住んでいる似非東北人の、私だけなのでしょうか・・・。

 岩手県出身の童話作家、宮沢賢治の作品に「グスコーブドリの伝記」というのがあります。

 貧しい木樵の子、ブドリは、妹のネリとともに飢饉の年に、森の中に失踪してしまった両親に捨てられてしまいます。妹のネリも人さらいにさらわれますが、その後、ブドリは様々な苦難の末、働きながら勉強をして、イーハトーブ火山局の技師となります。彼は、潮汐発電所や火山観測小屋を建設したり、肥料を空から降らせたりして、農民のために献身します。誤解を受けて農民から迫害されることもありましたが、やがてネリとも再会し、ブドリはしばらくイーハトーブで楽しい生活を送ることができます。

 ある時、その年の冷害から村を救うためには、火山島を爆発させるほかはないが、そのためには誰か一人が島に残らなければならない(つまり、火山爆発の犠牲にならなくてはならない)こととなり、ブドリはその一人となって、島に残ります。

 そしてその次の日、イーハトーブの人たちは、青ぞらが緑いろに濁り、白や月が銅いろになったのを見ました。けれどもそれから三四日たちますと、気候はぐんぐん暖かくなってきて、その秋はほぼ普通の作柄になりました。そしてちょうど、このお話のはじまりのようになるはずの、たくさんのブドリのお父さんやお母さんは、たくさんのブドリやネリといっしょに、その冬を暖かいたべものと、明るい薪で楽しく暮らすことができたのでした。

 福島原発の復旧に命がけで携わる名もない作業員一人一人が、現代のブドリとは言えないでしょうか。それともブドリなら、原子力に替わる再生可能エネルギーを見つけ出して、本当に誰もが笑顔で暮らせる日々を、実現させてくれたでしょうか。

 東北には美しい海があり、美しい山河があります。

   

 ふるさとの山に向かひて

 言ふことなし 

 ふるさとの山はありがたきかな   石川啄木   

 

 私は「東北」を愛しています。あなたは「東北」を知っていますか。