· 

前を向いて

 なめとこ山通信 26

 

 3月11日の東日本大震災で被災された方々に、心よりお見舞い申し上げます。また、亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします。

 あの日、勤めていた特別支援学校の学校行事「三年生を送る会」の担当責任者だった私は、体育館で腕時計を見ながら、(プログラムがもう少し早く進行してくれないと、スクールバスに間に合わなくなっちゃう・・・)などと思っていました。高等部の生徒は、そういう訳であの時は全員揃って体育館内にいて、なんとか無事に一時的に校舎の外へ避難することができ、その後、ぐらぐら揺れるプレハブ校舎ではなく、4月から引っ越す予定だった新校舎の食堂の方へと、退避場所を移し、余震の続く中、保護者のお迎えを待ったのでした。

 しかし、生徒の引き取り訓練というのはしていましたが、この日の電話回線はパンク状態で、なかなか保護者と連絡が付きません。(電話会社が回線を絞っていたとのこと。)何より電車も止まってしまっており、連絡が付いても引き渡せないもどかしい状況でした。7時過ぎまで学校に留まる生徒が何人もいて、その帰宅できない生徒達と一緒に、私も非常食の夕食(御飯と味噌汁とが配膳されました。)を食べました。その時はまだ、(テレビも見ていませんでしたから)どんなことが起きたのかよくわからずに、「なんだか校内泊みたいだね」と話していました。8時過ぎになっても保護者と連絡が付かない生徒がいましたが、教員も全員が残っている必要はないということで、帰れる者は家に帰宅してよいということになり、私は帰宅させていただきました。最後まで学校でお母さんのお迎えを待つ生徒(Mちゃん)に、「Mちゃん、がんばってね。Y先生が一緒にいてくれるから、大丈夫だよ。」と声を掛け、後ろ髪引かれる思いで学校を出ました。(Mちゃんもその後、お母さんと連絡が付き、学校に泊まることなく帰宅できたということでした。)南大沢に住んでいる方が車を出してくださったので、私は若葉台あたりまで車で送っていただいて、あとは歩いて帰りましたが、帰宅難民 という言葉が現実になる日が来るとは、思ってもいませんでした。

 ところで既に、私の父の郷里は岩手県だということは、ここでお伝えしたことがあります。詳しく言いますと、父の郷里は岩手でも沿岸部の山田町なのです。今回の地震では、津波でたいへんな被害を受けた町です。美しかった山田の海のことを思い出すと、胸が痛みます。亡くなられたたくさんの方々のご冥福を心よりお祈りします。ただ、父の実家のある豊間根(とよまね)地区という所 は、山田町でもうんと内陸になるので、津波の被害はありませんでした。また、悪運の強い父は、地震のあった日は、たまたま東京の私のところに来ており、岩手で被災せずに済んだのでした。(ただし、しばらく岩手には帰れなくなりました。)

 地震の日は、兄が豊間根で留守番をしているはずでした。しかし、よりによって兄は釜石に出かけていたらしく、車に乗っている時に、直接津波にのまれてしまいました。地震直後に「今、大きな地震があったけれど、助かったよ~。」と義姉の所にメールがあったらしいのですが、釜石を津波が襲ったのはその後で、以後まったく連絡が取れなくなってしまったとのことでした。 それで一時は、義姉家族は兄のことを諦めて一晩泣いていたそうです。(と、私は後から聞かされたのでした。)兄が行方不明だと私が知らされたのは、土曜日の朝のことでした。そして、その日の午後には、兄は(すぐに派遣されたという自衛隊の車両に助けられ、先導される形で)盛岡まで避難してきているということがわかったのでした。あっと言う間の無事確認だったのですが、その間自分は、仕事を辞めて岩手に行くことになるのかな・・・とまで思いを巡らせたりしたので、なんだか凄く、不思議な感じがしました。そうして後からやっと、あぁそうだ、兄さん生きていたんだね、ありがとう、たいへんだったよね、お疲れさま、と思い至れたのでした。

 それは、かつて冬山の稜線上で、本当にうっかりして背負っていたザックをそのまま雪の斜面に丸ごと落としてしまった時のことを、なぜだか思い出させた出来事でした。あの時私は、真っ白い雪の斜面を、ゴロゴロと滑り落ちていく自分のザックを、なすすべもなく呆然と眺めていて、どうしてあれは自分じゃないのだろうと思っていたのでした。いや、あるいは半分は、自分が雪の斜面を滑落している疑似体験を頭でイメージしていたのかもしれません。とにかく、雪の谷底にザックが見えなくなるまで、ずっと見送っていたのです。どうしてあれは自分じゃないのだろうと・・・。そうして自分は、「生き残ってしまった」という感覚にとらわることになるのでした。

 もう16年ほど前のことになりますが、阪神淡路大震災の時にも、こんなことを感じたことがありました。東京に住む私は、募金をすることはあっても、テレビの中の出来事の震災は、身近なことではありませんでした。あれほど多くの方が 亡くなったのに、テレビのこちら側では普通の生活が淡々と繰り返されていました。テレビのこちら側とあちら側、というだけではなく、現地へ行ってみれば、 国道を一本隔てたところでまったく町の様子が変わっていたりしていて、何が生死の境目となったのだろうという思いもしたのでした。

 先日、私はインターネット上のある掲示板で、次のような書き込みを見つけて愕然としました。これは、今回の震災で被災された方の書き込みかと思われます。 (正しくは、被災したのは福島のお兄さんで、そのお話を聞いた弟さん?による書き込みです。)私は実際には被災していないので、被災者の立場に立つということは本当に難しいことなのだなぁという思いをあらたにした文章となりました。長文になりますが、この、福島のお兄さんが我慢せずに、溜まっている思いも吐き出 せたらという気持ちも込めて、私がインターネット上で見つけたその文章を、そのまま引用したいいと思います。

 

 「頑張ろう、頑張ろうって言うけど、家が流されたんだよ?」と、福島の兄に電話したら、言われました。

  おまえ、ちゃんと分かってるの? 超つらいとき、「とりあえず帰りたい、もう帰りたい」っていう、あの帰る家がね、全部流されたんだよ。俺、もう、家ないの。明日も頑張ろう!って決意するような場所がね、ないわけ。今日も疲れた~!ってドア開けてホッとするような所がね、全部、一瞬にして、心の準備もなく、いきなり11日から消えたわけ。おまえ、家ないのに頑張れる? 服も漫画も、化粧道具も、アルバムも、大事にしてたもんも、全部いっきに無い。よし、 頑張ろう!って思える? すげえ言われてるんだけど、CMとかで、頑張れ頑張れとか。ちょっと気を許すと、「一緒に頑張ろう!1人じゃない!」とか言うわけ。いや、おまえら家あるじゃん? そのCM撮ったら家帰ってるじゃんって。仕事もあるじゃんって。おれ、船、なくなったんだぞって。多分、漁師はもうできないと思ってる。もう、な~~んもない。どう考えたら、今、頑張れるんだよ。ちょっとでも頑張れる何かが、今、俺たちにあるのか? 「いや、今はこっちで頑張るから、おまえらは1年ハワイでゆっくりしてきな」とか言われたい。「おまえらが帰ってくるまでに片づけとくから。家も建てとくから」とか言われたい。そしたら、俺だって頑張るよ。

 毎晩、うなされるし、夜いつまでも眠れない。流された人を何人も見た。顔見知りも流された。その頭にある映像を何回も思い出す。そのたび、津波がこうくるって分かってたら、あの人を助けられたかも、とか。時間が戻せたら、隣のおばあちゃんちに寄ってあげたかっ た、とか、1人でも助けて英雄みたくなったら、まだやる気が起きたかな、とか。・・・俺、1人で逃げてきたわけ。誰も助けなかった。おばちゃんとか、何人 も追い抜いて逃げた。重そうなもの持ってる人とかもいたのに。もう100万回くらい、100通りくらい後悔している。4日目にやっと町に行っていいと言われて、どっから手をつけていいかわからないどころか、いっそもう何もしたくなくなるような町だった場所を見て、ここを復興だなんて、微塵も思えない。今も。蓋をしたい。見たくない。町を見ると、死にたくなる。自分の人生は、もう終わったなって思うよ。こっからは、もう、どう頑張っても金持ちにもなれない だろうし、家だって、もう、二度と持てる気がしない。何も希望なんかないよ。

 そんな俺たちがさ、避難所で、CMでアイドルや俳優を見てさ、「一 緒だよ、1人じゃない」とか言われるたびに、あぁ、あの世界は自分たちとは、もう全然違ってしまったんだと思う。家がある人の言葉だな~と。安定してるな~と。そんなCMとかして充実もしてんだろうな~と。家が流されてなくてさ、帰る場所があって、仕事があって、地に足が付いてる人が、すげぇ神妙な顔で、お洒落な服で、こっち見て何か言ってるな、と。おまえに言われたくないと。ほんとに。何も言わないでほしい。大丈夫なわけがない。おまえらに大丈夫だよ、とか言われても、大丈夫なわけがない。どう見たら、この状況が大丈夫になるのか、胸倉つかんで聞いてやりたい。でも、怒る元気もない。やる気もない。 ボランティアや取材のやつらも来て、色々写真とか撮って、「実際みると、テレビとかとは全然違いますね」とか言ってて、数日たったら「元気出して頑張っ て!」とか言って、自分たちの家に帰っていく。正直、復興なんてクソ喰らえだと思うよ。

「何か、できることある?」何を言っていいかわかんなくなって、兄に泣きながら聞いたら、

「正直、不幸になってくれたら嬉しい」と言われた。

「俺たちを幸せになんてふざけたこと思わないで、俺たちの分、そっらもみんな不幸になってくれたらな~」と言われた。

「俺 たちを想って歌とか作られても今は不愉快だから、東京も全部流されて、それでも『頑張ろう』って言われたら、頑張るよ。その人の歌なら聴く。知らないやつに、馬鹿みたいに『頑張って』とか『大丈夫』とか言われると、今は正直、消えてほしくなるよ。募金は嬉しいよ。で、ボランティアじゃなくて、ビジネスで、 仕事として、町を復興に来てくれた方が、こっちも気兼ねなく色々頼めて気が楽。正直、ボランティアに『ありがとう』とか言うのも苦痛。」と。

兄と電話で話してから、テレビを見てたら、すこくモヤモヤしてしまって、書きなぐりました。

 

  大切なものを喪失してしまった時に人は、「どうして自分は助かってしまったんだろう」という罪の意識に駆られることがあるそうです。「あなたが助かってく れてありがとう」「あなたが生きていてくれて、ありがとう」そういう言葉をかけてくれる人さえ失い、一人きりになってしまっている人が大勢いるのかもしれません。「頑張ろう」という言葉に苦痛を覚えるという人がいるのも、現実なのでしょう。

 だとしたら、今、私たちにできることは何なのでしょうか。

 先日、3.11のドキュメンタリーというテレビ番組を見ていると、あの、帰宅難民の溢れる路地の一角で、小さな八百屋さんが、無料でなめこ汁を作って配っていたということを取り上げていました。電車が動かないため寒い中を歩いて帰宅する若いサラリーマンに、八百屋さんが店の野菜を見繕って味噌汁にして配り始めたというのです。中でも好評だったのが、なめこ汁だったそうです。

 困っている人がいて、その人のために自分が何か出来るのなら、手を差し伸べてみればいい。ただそれだけのこと。ただそれだけのことを私は見聞きしただけなのですが、とても暖かい気持ちになれたのでした。

 山田町に残っている兄は、被災した人のために奔走する毎日のようです。最近ようやく、連絡が取れるようになりました。

 私はまだ、ボランティアにも駆けつけずに、東京で暮らしています。それでも東京で精一杯、前を向いて暮らしていこうと思っています。

 気負わずに、自分の出来ることからしようと思います。前を向いて。