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判決の重み。命の重み。

 26日、注目すべき二つの判決がそれぞれ言い渡された。

 奈良の小1女児誘拐殺人事件では、小林薫被告に死刑判決が下された。被害者が一人でも、死刑判決が出るかどうかが焦点となっていた裁判だ。結局、被告には謝罪や反省の態度も見られず、更正の可能性も極めて低いことなどから、判決では「被害者の数だけで死刑を回避すべきことが明らかとは言えない」として、これまでの死刑適用の判断基準に一石を投じる形となった。

 以前の自分だったら、そもそも死刑という制度自体が間違いなんだと、他人に論争を吹っ掛けていたかもしれない。なぜなら、人が人の命を奪うということは、間違っていると思うから。・・・それが、なんだか最近様々なニュースを耳にする度に、(こんな奴は死刑だよなぁ・・・。)と、ふと思ってしまっている自分がいたりもする。もちろんそんなことを考えてしまう自分自身が、怖いのだけれど。

 一方、東京地裁では、28年前の殺人事件で、殺人罪の時効成立後に自首した男に対して、遺族が損害賠償を求めた民事訴訟の判決が出た。判決では、遺体を隠し続けたことを「殺害とは別の不法行為」と認め、男に慰謝料など330万円の支払いを命じたものの、殺害に関しては「不法行為から20年で損害賠償請求権が消滅する」として、遺族の請求を退けたという。・・・・。犯罪の時効って、何だろうと思った。遺族の方が、「犯罪者の殺し得、隠し得、逃げ得を、国が認めることになる」と語っていた言葉の内には、本当に遣り場のない無念の気持ちが込められている。はたして、誰を(何を)救うための法なのだろうか。

 僕らは法治国家に住んでいて、法に守られているはずなのだけれど、その法律の解釈っておかしいぞ、と思うこともあるよね。(ただ、だからと言ってすぐに法自体を変えようとするのもまた、危険なことなのかもしれないのだけれど・・・・。)

 それでも、2009年までには裁判員制度が始まって、今度は自分自身で法解釈をして、判決を下さなくてはならない時が来るんだ。(一生涯のうち裁判員に選ばれる確率は、六十数人に一人とか、九十数人に一人とか言われている。試算のし方で違うんだろうな。ともかく、なんとなく多い数字のような気がする。)

 他人を殺したいと思う人がいる。自分を殺して欲しいと思う人もいる。それは現実。

 器械の助けを借りて精一杯生きている人もいるし、不幸なことに犯罪によって理不尽に命を奪われてしまう人もいる。人の生きている限り、現実は様々、か・・・・。一つ言えることは、生まれてきた生きものは、生きようとして生きているはずだということ、そうであって欲しいと願う、それは自分の真実。