· 

記憶って何だろう。

 先日見に行った映画の原作本『博士の愛した数式』(小川洋子・著。新潮文庫。)を読み終えて、あらためて記憶って何だろうって思った。

 物語には、記憶が80分しか持続しない数学者の「博士」が登場する。博士は、自分のその特異な病気を認識するために(忘れないように)、背広の袖に「ぼくの記憶は80分しかもたない」と書いたメモを留めてある。たとえどんなに大切な人であっても、(買い物に出るとかで)会わないでいる時間があり、80分過ぎてしまって(買い物から)その人が戻った時には、博士にはその大切な人が初対面の人となってしまうのだ。・・・考えると、なんて悲しいことなんだろうって思ってしまう。大切な人との想い出を、何一つ重ねていけない人生だなんて・・・。

 自分も、物忘れのひどい時があるけれど(あは。)、覚えていたはずなのに〜・・・という感覚と、記憶がまっさらになってしまうのとでは、まったく違う。実は、自分は発作持ちで、(と言っても、今は発作は薬でほぼ抑えられているけど。)発作から意識が戻ってからの数分間に、記憶の抜けてしまった状態というのを経験したことがある。気が付くと救急車の中で、救急隊員に「わかりますか? お仕事は何ですか?」と聞かれても、わからない。(自分の勤め先を忘れている。てか、知らない!)まず、日にちがわからなくて、不安になる。けれどなぜか、自分の名前だけは覚えていた。それは、忘れているのとは違って、もっとなんて言うか、ホワイトアウトの霧の中を彷徨うような、真っ暗な夜に深い深い陥穽に延々と落ちていくような、そんな感覚だった。(自分の場合、記憶はすぐに戻ってきたけれど・・・。すぐに、と言うか、それはまるでパソコンが起動するように、少しずつ頭の中で電気信号が交わされていく瞬間だった。)

 自分が自分でいるってことは、そもそも記憶を積み重ねていくことでもあるんじゃないだろうか。全く記憶をなくしてしまったら、自分はただの生きる箱でしかないのでは? ほんの少しでも記憶を喪失してみれば、そういう不安に駆られるものだと思う。アイデンティティーとは、記憶の蓄積によって作られるものなのだろうかと。

 でも、『博士の愛した数式』を読んで、博士の病気を哀れに悲しく思うよりも、もっと、優しく愛おしい気持ちになれたのはなぜだろう。・・・人ってやっぱり、人と人との関係の中で自分を見つけ、自分を作っていくものなのかもしれない。

 『博士の愛した数式』。博士と、家政婦の「私」、そして私の息子(タイガースファンで、頭のてっぺんが平らなことから博士により「ルート」とあだ名された小学生。)の三人が共に過ごした日々の物語。映画と原作本とでは、少し内容が違っていたけれど、どちらもなかなか素敵だった。お薦めです。