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魂が、追いつかない。

 こうして僕らはせかせかと、毎日を慌ただしく生活している。今日も一日疲れたなぁとか言っちゃって、でも布団に入れば、明日が来ることを信じて疑わない。いや違う。信じても信じなくても、「どうか明日が来ますように」と祈っても祈らなくても、誰のもとへも明日はやってくるのは当たり前ということが、生きていく上で皆に平等に与えられた救いの一つであって、それは暗黙の了解のはずだった。明日がある・・・。けれどあの日、あの場所に集まった人達には、明日どころかあの日一日からが、プッツリと無くなってしまった。普通に家を出て、いつものように電車に乗り、けれどいつものようには、一日が始まらなかったのだ。例えばそれが、自分の身に起きても不思議でないことだから、胸が締め付けられるように苦しいんだ。僕らはなんだか、有無も言えずに硬い箱の中に入れられて、ものすごいスピードでどこかへと運ばれていた・・・。速いから、便利だから、そして結局、一部の誰かが儲 かるから。・・・。あれれ、なんだか、魂が、追いつかない。

 あの場所で、いきなり身体を失ってしまった魂たちも、きっとあの場所で、彷徨っているんじゃないかなぁと思う。

 ところで僕らは、今を生きている僕らは、魂が追いつくのを、ちゃんと待っているだろうか? 以前、ミヒャエル・エンデが元日の朝日新聞に寄せた文章に、 こんなものがあった。(以下要約。たしか昭和64年の元旦の新聞で、てことは平成元年だ。印象に残ったのでずっととっておいたんだ。その後、中学国語の教 科書に載ったのも見たことがあった。)

 

 中南米奥地の発掘に出かけた調査団が、荷物一式を携行するためにインディアンのグループを雇った。インディアン達は屈強で従順だったので、調査作業の行程は予想以上によくはかどった。ところが5日目になって、彼らはぷっつり足を止めた。無言で車座になって動かなくなったのだ。学者達は彼らを、叱りつけたり脅したりもしたが、お手上げ状態でとうとう諦めた。日程には大幅な遅れが生じた。・・・と、それから2日後、突然インディアン達は全員が立ち上がり、荷物を担ぎ上げ、予定の道を歩き出したという。

 ずっと後になって、学者グループの数人と、インディアン達との間にいくらかの信頼関係が生じてから、初めて一人が答えを明かした。「はじめの歩みが速すぎたのでね。」という答えだった。「わしらの魂が後から追いつくのを待っておらねばなりませんでした。」

 

 一人で立ち止まることは、難しく、勇気のいることかもしれない。言い換えれば、あまりに大勢で一緒になって突っ走っているものだから、もう止まりたくても止まれないというのが現実なのかもしれない・・・。魂が、追いつかないと思う。